キリスト教Q&A

キリスト教に関するご質問

(問3)

キリスト教では神様は愛の神様であると説明しますが、何故、このような苦しみの世界の存在をそのまま放置されているのでしょうか?

(回答)

 この世の中には様々な理不尽なことが起きます。そのような理不尽さは神様の愛を否定するように見えます。聖書はこのような世の中の様々な問題の根源的な問題に罪(神様から離れて生きようとする人間の姿勢)があると説明します。

 この罪の存在が人間を自己中心的にし、そのような歩みがお互いを傷つけ合わせ、苦しみをもたらす時があります。もし、神様が人間の罪を全て一掃されようとしたら、この地上には誰も存在しなくなってしまうでしょう。人間全てを滅ぼさざるを得なくなるからです。神様は人間に選択の自由を与えられました。私たちの人間の様々な選択がお互いの生き方に直接的に間接的に様々な影響を及ぼしています。

 しかし、人間の選択とは別に「自主決定にあらずして」の苦しみも人生には伴います。聖書はそのような苦しみに対して明快な答えを与えていません。その方の生き方が原因であるとか、その方のご先祖が原因とは書いておりません。ある意味、神秘に包まれています。

 聖書の「ヨハネによる福音書」に盲目の人がでてまいります。イエス様の弟子たちはこの方の罪なのか、それとも先祖の罪でこのようになってしまったのですかとイエス様に尋ねます。しかし、イエス様はその質問に直接にお答えにならず、神様の栄光が現れるためであると答えるのです。原因を探っても答えの見出せない不条理がこの世には存在いたします。聖書はそのような原因を探る質問を考え続けるよりも、神様が何をなそうとしておられるかにその質問に変えてみましょうと言われます。

 何故なら、聖書の神様はこの不条理な世界に飛び込んでこられた神様であるからです。自分自ら、人生の不条理を経験なさいました。無実であるにもかかわらず、十字架という刑にかけられ、神も仏もあるものかと思われる経験をなさいました。聖書は不条理の原因を明らかにしませんが、この神様はあなたの不条理を理解できる神様として描いています。答えのない原因を探すのではなく、この神様にあなたの不条理を委ねてくださいと勧めるのです。

 聖書はいつまでもこのような世界が続く事を述べてはいません。最終的に神様がこの世界を新たな世界に造り変えて下さる約束があります。そこでは「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21:4 )新しい世界です。クリスチャンはこの希望と共に、同時に現実逃避ではなく、その現実をたまわったものとしてしっかりと受け止め、そこで咲こうとする生き方に徹しようといたします。