キリスト教Q&A

キリスト教に関するご質問

(問2)

キリスト教は弱い人が入るのであって、普通の人は宗教無しで自分の力で生きていけるのではないでしょうか?

(回答)

 不思議なことですが、そのように考える平均的な日本人の多くも新年には神社に参拝しているようです。キリスト教に限らず、宗教はどの宗教であれ、ある意味、弱い人間の営みなのかもしれません。しかし、聖書が「弱い」という言葉を用いる時、その意味は「個人的な弱さ」ではなく、「人間」としての限界を意味しているのです。

 人間には様々な限界があります。亡くなりましたが、名女優にオードリー・ペップバーンという方がおりました。その方の老いた写真がありました。映画は私たちにいつまでもペップバーンは若々しく美しいという錯覚を与えてしまいます。ですが、現実はそうではありません。ある時、ヘップバーンが言ったそうです、 「私も年をとりますわ」 と。年をとらなければならないということも、私たち人間の限界の一つです。

 このような限界に人が気づかない時、人は時として暴走してしまうのではないでしょうか。キリスト教は人間の限界を率直に認めるところから始まります。この事実を認めるということは人間としての謙虚さを身につけることにつながってきます。

 カール・マルクスは「宗教は阿片である」と述べました。果たして宗教は、ちょうど、アルコールが無ければ生きていけないアルコール依存症に似た、依存症的な人間を造り出すのでしょうか。聖書はこの限界を認める人間の本来の姿勢は神様への依存ではなく、信頼であると説明します。この信頼は別な言葉では神様によって絶対的に愛され、受け入れられている関係と言うことが出来ます。

 それはちょうど、子どもが成長の段階で、大小様々なチャレンジに立ち向かう勇気を得ることができるのは子供自身が親から愛され、受け入れられているという体験している時と同様です。同じように人が自分の足で立ち、自分らしく生きていく土台にこの信頼感が必要であることを聖書は教えています。
 
 そのような意味で聖書は神様依存症の人間を作り出すことはありません。むしろ聖書の教えは、神様の愛への信頼によって、どのような状況の中に置かれても元気を出して前に進むことが可能な人間を造りだすのです。 

 宗教を阿片と捉えたカール・マルクス、彼の理論を土台に築かれようとした共産主義のロシアにおいて、皮肉なことに消えていったのは共産主義であり、キリスト教ではありませんでした。あなたもあなた全てを受け入れて下さる神様に信頼して歩んでみませんか。